昭和47年5月25日 朝の御理解
中村良一
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
えー、何日か前にも、ここんところを頂きましたですね。そん時に、えー、向こうへおりたら、えー、それで安心じゃと言うところを、あー、もう、この氏子は大丈夫と、例えば、神様が安堵して下さる、安心して下さる。というところまでが、あー、いうなら、十里の坂を向こうへ登り切った、向こうへおりたことであろうという意味の御理解だったと思います。神様が安心して下さる。もう、あの氏子は、もう、あそこまでで成長したから、もう後は、一人でにでも育つというようにです。信心の成長の姿勢というものが、神様へ安心して頂けれるところまでの、信心を言うのだという風に頂きましたですね。今日も私、そこんところをですね。安楽境という事に、安楽境。安楽の境地というんでしょうね。往生安楽の安楽ですね。安楽。安い楽、安楽境は境地の境です。境(さかい)ですね。安楽境。そして、今日、この八十一節を頂いたわけです。えー、神様がどういうような信心をさせて頂いたら、安心して下さるだろうか。もう、毎日、毎日、一生懸命、それこそ、雨が降っても、風が吹いてもお参りをする。非常に熱心である。だから、神様が安心して下さるという事じゃないと思うですね。お参りをさせて貰う、信心の稽古をさせて頂く、その焦点が、いわゆる、定かでない。ね。そういう信心でです、例えば、いかに、日参り、夜参りが出来ても、神様は安心して下さらない。絶対のもの、間違いのない、そこへ信心の焦点が置かれて、信心の稽古をさせて頂くという姿勢を作ったところからです。神様はお喜びくださり、それが段々、その信心に楽しみが出来てくるようになったら、私は神様が安心して下さると思う。そこでその、目指させて頂くというところが、その、どこにおかれておかなければならないか。ね。信心の稽古をさせて頂いて、ね。どうぞ、病気が治りますようにとか、今日もどうぞ、商売繁盛致しますようにとかと、言うような、例えば、ことが、一生懸命の信心であったのであってはですね。何時までたっても、それは、十里の坂を登り切ったことにならないです。ね。そういう信心から、信心の、本当のところが分からせて貰うて、ね。その願いに沿うて、その願いに向かって信心が進められていくと、という事になったら、先ず、神様が安心して下さる。ね。氏子信心しておかげ受けてくれよと、氏子真実、信心によって幸せになってくれよという事は、どういう事かと。
えー、昨日は、北野の秋山さんところの謝恩祭でございました。大変行き届いた、もう本当にあそこの場合、何時も、あの感心いたしますことは、子供達が全部、もう、遠方に言ってる、もう嫁入っております娘さんたちも、みんな帰ってくるんですよね。えー、丁度、村祭りかなんかの時に、親戚から集まってくるようなもんです。それにお供えを、その土地土地の、いわゆる、名産といったようなものを持ってね。そして、あのお三宝は私がおかげ頂く、このお三宝は私がおかげ頂くというようにして、子供達がおかげ頂いておる。もう、何とも言えん雰囲気の中におかげを頂くわけですよね。もう、お茶だけは私が持っていくから、お茶菓子のことやらのほうは、心配しないでくれと、前から手紙が来てる。もう、それぞれにその、思いを込めて、ま、一家をあげて、一年の、神恩報謝のお祭りがあるわけです。ね。本当に私は、昨日、秋山さんたち夫婦に申しました事でしたけれども、宅祭りというのは、何て有難いものだろうかと。もう、有難くさせずにはおかんという働きがあるようだねと言うて話したことでした。もし宅祭りをして有難いというものがなかったら、もうそれは、宅祭り、謝恩祭の値打ちはないですね。けども、合楽の方達の場合は、もうそれこそ、そこに、信心がかけられるですもんね。例えば、一月なら一月はもう、日々、いわば、神様にお喜びいただけるような信、お祭りが、あー、仕えていただきたいというような願いを込めて、もう一生懸命の願いをされるところからです。期せずして、そのお祭りの雰囲気というものが、もう、どんなものでも有り難うならねばおれないような雰囲気を、そこに醸してくるわけですね。有難い。ですから、そういういき方が、例えば、宅祭りが終わったから、やれやれじゃなくて、そういう、例えば、実意なというか、真心なというか、そういう日常生活が出来るところにです、期せずして、何時もその、有難いという心の状態が与えられるのだと。ね。有り難うなろうとしてなれるものじゃない。やはり、真心一杯、実意一杯の、例えば、宅祭り、宅祭りという、そういう願い、思いがです。ね。信心を引き締める。そこに、期せずして、お祭りが有難いものになってくる。期せずして、もう、神様に与えられるものなんだから。だから、そういう宅祭りを仕えるような心掛けでです、ね。お商売をしたら良いのであり、日常生活があられたら良いわけなんですよね。だから、有難いという事。
昨夜、あちらの御祈念中に頂いたことでしたけれども、ちょっと失念しておりましたら、こちらへ帰らせて頂いたら、もう、片付けを全部させてもらいよったら思い出した。いや、ほんなこんな、こりゃ、結局、今晩、夕べ遅う思い出せて頂いたことは、いちばん、明日の朝の御理解になるだろうと、こう私は思っておった。ほっで、まあ、結局、今日の、安楽境と繋がるような感じがするんです。ね。安楽境。いつも心が安らいでおる。心が楽な。
昨日は、あー、あちらへ、私、皆さんに聞いて頂いたお話しの中に、んー、偉大な信心。ね。いわゆる、大きな信心という事に、えー、を、その内容としてお話させていただいた。それで、ちょうど、昨日、お祭りの前、知らせておりました、あー、三人の支部長さんたちの信心を、私が、その、日頃、感じておるところをきいていただいた。ね。秋永先生の場合、先日から、あー、英治君が高松つぁん所へ行って、もう、最近、もう、お父さんの信心の偉大さと言うものを、おー、ようやく分からせて頂いた、という意味の事を言うたと言うて、その事を和子さんがお届けしておられました。どういうところにその、父親の信心に偉大さを感じたかというと、もう、だれが見てもです、だれが聞いても、どうか、そこに言わなきゃおれないといったような問題が次々とあるけれども、もう、最近の、いわゆる信心である、黙って治めるという、その、もう、そこに徹しておるようであると。家の父は。もう、これには本当に恐れ入るというような意味の、いわゆる、父を、それだけ尊敬することが出来るようになったと。父の信心が偉大だと。確かに偉大だと思いますよね。
久留米の支部長であるところの佐田さんの信心を例をとって、昨日はなしましたことをです、ね。神様から、立教神伝と同じ、いわば、文句のことを頂いたと。ね。この幣切り境にというそれです、ね。難儀な氏子の為に取り次ぎ助けてやてくれ、神も助かり、氏子も助かることだからと、もう、切々として神様がお頼みになっておられるのが、あー、立教神伝なんですよね。金光大神の。その事をです、言葉をちょっと変えてですね、もう、切々とですね、その、ね。お商売のほう、ね、商売人ですから、ね。それこそ、欲を離して商売をしてくれよという願いである。もう、佐田さんのお商売じゃない、神様の商売としてという事なんです。ね。なるほど、例えば、あー、○○商店という、その看板ではあってもです、その内容がです。もう、神様がなさっておられるお商売、その商売をです、一つ、ね、難儀な氏子の為に取り次ぎ助けてやってくれと仰るようにです。ね。その、お商売のことを神様が、いわゆる、神頼みになる。そういうお知らせだった。ね。ですから、その線に沿うて、お商売をさせていただくんだと、まあ、意気盛んなところ、皆さんがご承知の通りです。ね。佐田さんの信心の素晴らしいところは、そこですよ。どこまでも、その事業であり、その商売であり、その仕事がです。ただ、自分の仕事、自分の繁盛、繁栄という事のために、どうぞお願いしますという信心だったら、もう、偉大さというのはありません、それだけのものです。ね。それを、神頼みのまにまに神様がお商売として、自分がその事に、一生懸命精進さしてもらおう、神様の願いが○○商店の上に成就していくことの精進を本気でさせてもらおうと。その、まあ、立教神伝風のお知らせを頂かれて、一段その思いを固めておられる様子を、佐田さんの信心から感じることが出来る。偉大です。大きな信心という事はですね、その、偉大な信心という事は、自分自身が楽になるんです。ね。どういう事が起こってもです。そういう大きな神様の大きな願いに、立ち向かっての信心ですから、例え難儀なことがあっても、このくらいな修行はあるのが当たり前という頂き方ができるのです。楽です。ね。いわゆる、今日、私が言う、安楽境というようなものの、安楽の境地というようなものはですね、そのような信心から私は生まれてくると思うです。
大分の支部長であるところの綾部さんの信心。まあだ、信心は若い。けれども、おー、まあ、二年間余りの信心を通してです。信心の進展していかれる具合というものがです。ね。こう言ういき方で行くならば、おそらく神様が喜んで下さる、安心して下さるだろうという信心の線に沿うて行きよりなさるという事なんです。これは、昨日の朝の御祈念の後、御理解を頂き終われてからの、このお届けでした。若い人達がやっておる商売というものはです。どうも、その甘いところがある。だから、もう一遍、自分が第一線に立ってやろうかなと、時々思うことがあるけれども、今朝の御理解いただかせてもらいよったら、もう、その事は、神様にお任せして、ね。いわゆる、昨日の朝の御理解。本当の信心の、いわば、焦点を目指させて貰うて、ね。そこに、私は、打ち込んでいく、そこに、いよいよ、はまった信心をさして頂く以外にはないんだと、まあ、感じたと。神様が安心して下さるだろうと、喜んで下さるだろうと。ね。小さい自分の我情我欲といったようなことは、ね。任せて、ね。ただ、神様に一心におすがりして行こうとこういうのである。私は、言うなら、信心係だと、御祈念係だと、と言うような、んー、三人の支部長さんの、おー、ま、いうならば、偉大な信心というか、ね。いわゆる、我情我欲のために、どげん一生懸命、なら、日参り、夜参りしたところでです。それで、ほんなら、何時までもそれは、幾ら登ったところで十里の坂を向こうへ下りるという事にはならないと。神様が安心して下さるという事にはならないと。ね。
昨日、ある青年の方が、毎日参ってくるんですけれども、んー、ま、ある青年と申しましょう。もう、三十から、幾人かの子供の父親でもあります。熱心に、子供の時からの信心です。問題が、次々と、もう山ほどあるんです。本当に、可愛そうなごとあるです。うら若いあんたに、そういう修行させて、えー、させることが、ちった、酷なように感ずることがある。昨日参ってきてから、お届けをすることなんです。先生、おかげを頂いて、ね。昨日ですね、昨日の言葉にて、昨日一日、おかげを頂いて、いわゆる、いろんなそれこそもう、いわにゃおれないといった様なことが、何回もあったけれども、おかげで、言わんで済む修行をさせて頂いたと言う、お礼のお届けがあった。そして、親先生、言わんで済むという事が、有難いという事は、まだ分かりませんと。だから、言わんで済むという事は、大概に苦しいことなんですとこう言う。いわゆる、黙って治めるという事がです。もう、だまっとったから、もうその場で治まるという事じゃ、決してありませんと言う。そこを、繰り返し繰り返ししていくうちに、治まる、おかげが受けられるのであろうと思うて、この事を修行と思うて、昨日一日おかげを頂いて、言わんで済みましたというお礼のお届けでした。私は、それを聞きながらですね、言わんで済む、黙って治めるという事は、黙れば、もう、その場で治まるという事じゃないという事。おかげは何時やら分からんという事。けれども、黙れと仰るから黙るんだという修行に取り組んでおる事ですから、有難いものも、まだ、感じきらんのだけれども、親先生が言うて下さる、黙って治めるというその、黙ってのところだけは、昨日一日出来ました。今日もどうぞ、と、もう日々をです、そういう願いをして行こうと言うのである。昨日一日は出来ましたから、今日一日も、たとえ、どういう事に直面致しましても、言わんで済むおかげを頂かせてください。もう私は、それ聞いて、ほろりしました。そしたら、神様からですね、あの、お知らせに頂ましたのが、えー、新鮮な、もう、本当に今、もぎたてといったような枇杷をね、あの、お三宝一台お供えしておるところを頂きました。そして、その次に頂くのが、あの、虫がついたというか、もう、熟し過ぎてからというか、もう、ぽろんぽろん、おてておる枇杷を次に頂きました、御心願に。私は、それを頂いてから、色々と思わせていただいたことなんです。ね。例えばその、おー、我情我欲を離れてとなどという事は、とてもとても、まあだ、若い間は、我情我欲は一杯あるが良かと。そげん、もう、歳取ってからで良かと。まあだ、早すぎるてんなんてんちいう事じゃないて。もうね、もう、我情我欲を言うたっちゃ、もう、同じこっじゃけん、諦めたぐらいなこっでですね、我情我欲を言わんごつなったっちゃ、もう、ぼてぼて落ちた果物のようなもんじゃけん、神様が受けちゃ下さらんち、お供えに。ね。今こそ、若いうちにです。改まるところは改まらせて貰う、ね。という、例えば、ほんなら、タバコならタバコを呑みよるとしますか、ね。だから、まあ、五十までぐらいは、のうちから、後はもう止めるち、いうような事ではね。もう、今、お供えしなければ新鮮なものじゃない、新鮮なく、もう、果物は、新鮮さが値打ちであるから、神様へお供えするならば、やっぱり、新鮮なうちでなからないけん。なるほど、たとえばその、黙って治めるといったような事がです。ね。黙っての修行という事がです、まあだ、この若さで、今から続けられていくなら、しかも、日々です、ね。昨日一日は、やっとかっと出来ました。今日もどうぞ、その事に取り組ませていただいて、言わんで済むおかげを頂かせて下さいというような信心が、段々積み重ねられていくならばです、ね。必ず、治まるおかげが受けられるだろう。なるほど、黙って治めることの偉大さという事が分かるだろう。ね。若いうちに、そういう信心でなからにゃ、神様が受けちゃ下さらないち、幾らお供えするち言うても。私は、その事を思わせていただいてから、あの、皆さんが御祈念しよりなさる時に、青年さんのこの腰をちょっと開いてみたんですよね。そしたら、私が頂く事がね。こんなことを頂いた。腰の手の、はだか線香や、彼岸ばばと。良いですか、腰の手の、はだか線香や、彼岸ばば。まあ、私は本当に、こういう事を頂いてから、もうね。こうして御理解を皆さんに聞いていただきながら、もう不思議で不思議でたまらん、有り難うして有り難うしてたまらんです。私の思いが、これが、ね。今、私が、信心な若いうち、しかも、本当な線に沿うてから、させてもらわなければならない。腰の手の、はだか線香やという事は、もう、腰がこう曲がってござるばばさんのことでしょう。杖を突いて、そして、後ろ手に、はだか線香をこう持って、お寺参りか、墓参りかありよる姿のことでしょう。ね。いうなら、もう、いわば、あの世行きが近うなったから、いわゆる、御所願いの信心をすると言いますよね。若いときは、お寺さんなんかに参りはせんけれども、年取ったら、お寺さんに参ったり、その、お墓の守をしたり、ね。腰の手の、はだか線香や、彼岸ばば。お彼岸に、杖を突いて、ね。腰が曲がってござるから、後ろに手をこうやって、その後ろの手に、はだか線香を持ってござるという姿。まあ、素晴らしい句ですよね。けれどもね、今日、私が、ほんなら、言おうとするところは、それなんです。もう、年取ってからね、極楽行きの稽古ばしゅうちたっちゃもう駄目だて、これは。もう、言うなら、新鮮な果物が熟してからね。もう、お供え物にもならんごとなってから、改まりますけんち言うたっちゃ、もう、神様のほうが受けちゃ下さらんち。そげなお供えじゃ。ほらもう、お互いですね、本当に、信心の若いときに、本当の線に沿うてです。ね。出来る出けんは別です。けども、本当の安楽境を目指さ指して頂くという信心。ね。昨日、えー、頂いて思い出さなかったけど、あの、こちらへ帰って思い出したち言うのは、酔生夢死という言葉でした。これを頂いた、酔生夢死。すいというのは、酒に酔うという字の酔い、せいというのは生まれる、夢死というのは夢、死ぬとかいてある。酔生夢死。ね。この意味は、どういう事かと言うと、その、無為に一生を過ごしたという意味、すごすという意味なんです。なーにもすることもなし。世の中のためにもならず、ただ、飲んで食うて、ちょいと言うようないき方を言うわけです。酔生夢死というのは。ね。けども、私は、これを頂いた時にですね。その、私は、合楽流に、これを御理解出来たら、これは素晴らしいことだとこう思わせていただきました。ね。いうならばです。有難い、勿体なきに酔いながらの一生でありたいと思うのです。もう、どう考えても有難い。どげん考えても勿体ない。本当に有難いなあと、そういう、例えば、時なら、酒に酔うた時に、暑さ寒さを感じないように、いわば、苦労も、もう苦労と感じないようにです。信心の有難い勿体ないという時にはです。もう、その苦労の中にあることが、また、返って有難くなってくるんですよ。そういう信心を目指させて貰う。ね、教祖の神様が、御年、七十で亡くなられた。ね。そのときに、もう、それこそ、お最後の、いわゆる、お言葉がです、ね。「ああ、心安し。」という一語を残して、この世を神去られたとこういうのである。ね。いわゆる、「ああ、心安し。」もう、思いおく事も、さらさらないという境地なんです。なるほど、死ぬるという事は、誰だって、その事を思うたら、身の毛がよだつようにあるだろう。人が死ぬると、自分も淋しゅうなる。悲しゅうなる。いよいよ、自分も死ななきゃならんという時には、それこそ、恐怖心が湧いてくる。これが普通です。けれどもね、信心させていただいての、ギリギリのところはです、ね。この死生の安心というものが、私は願いだとこうおもいます。ね。ですから、このようにして、有難い稽古をさせていただくのであるから、この有難い心が、あの世にも繋がるんだと思うところに、死の恐怖という事もなくなるのだろうけれども、私はこの、夢死という事。夢の中に死するという事。ね。これは、今も申しますように、もう、人間が、ね。なすこともなしに一生を終わるという意味なんでしょうけれども、合楽に、ここのところを御理解を頂くならです。本当に、夢の中に死せれることを信じてです。ね。生活が出来るという事だったら、死に対するところの不安がさらさらなくなってくると思うです。ね。ああ、苦しい苦しいというのじゃなくてです。ね。夢のうちに、もうあの世行きしておる。これは、例えば、例を申しますと、これは私の流儀なんですけれどね。あの、例えば、腫れ物がしたり、色々致しまして、こう、化膿致しますとね。ちょいとつついて、えー、膿を出すとか、切ってから、こらまあ、先日あの、久富繁雄さんが、ここのところにです、こんな大きな、杭のようなものが残っておったんですよ。ほっで、上から扱う。ちょいとあつこうて見てくださいち。そすと、こんくらいな杭がちゃんと残っておるんです。だから、ちょいと、普通のものなら切り割って、こう出せば良かろうけれども、あの、こちらも私と同じこっで、ちっと臆病なんです。だからもう、そのまま、じっととってある。私はそのいき方です。もう、私はあの、ここに座っておりますから、座りだこが、大きいのが出来ますおよね。けれども、自分でとったことはいっぺんもありません。大きくなってくるとですね。あっという間に、布団に引っ掛かるとかですね。何かに引っ掛かってから、もう、あっという間に取れとるです。ちかっとする間もないぐらいに、いわゆる、夢の中に死んでいくとは、そういう事なんです。ね。私のことが、こげ思うなら、これば手術して出さなんてんなんてんちゃ、もう、えすかつ。死の恐怖というのは、そんなもんなんです。死ぬときは苦しかろ、はあっとこう思うけれどもです。私共が、常日頃に、それこそ、ね。酔うた中に生きていくというです。酔生。有難い、勿体ないのなかに生活が出来る。そういう、信心生活をさせて頂いておればです。これはもう、私の体験ですけれども、身の怪我のそういうのと同じこと。怪我する事はするでもです。それが、いつの間にか痛い、痛まんで、それこそ、まあ言うならば、楽しみながら死んで行けれるという。いわゆる、楽しみながらです。そら、先日ですもん、それが、あのなんかの調子に、引っ掛かってですね、その大きな杭がぽろっと取れたちいうんですよ。繁雄さんの話なんです。だから、痛い思いをしなければ何にもない。ね。怖いこともない、わけなんです。そういう、いうならば、死に方が出来るようなおかげを頂きたい。ああ、心安しの手がある。ね。そういう信心を目指すという事なんですよ。本当の信心というのは。そういう信心を身に着けていくという事。その、ほんならその、そういう信心を目指していく、一つの過程、その内容がです。例えば、今、申しますならば、ね。昨日の、私が、お取次ぎさしていただいた、ある青年の方じゃないですけれども、昨日も一日、おかげを頂いて、黙って、いわば、治めるところまでは出来ませんけれどもです。ね。黙って修行させて戴きました。有り難いことでもなからなければ、治まることもないけれどもです。これを日々繰り返させていただきよったら、治まるに違いはない。有難いことになっていくにちがいはないと信じて、そういう風に修行さして頂くというのだ。そして、なるほど、黙って治めるという事は素晴らしいことだなあという事になてくる。そういう信心を、私は偉大な信心だと思うです。ね。私は、その、昨日、その話を聞きながらです、ね。なるほど、黙って治める、黙って治めるといや、もう、ほんに一日、ぐうぐ言うてこらえとりましたら、夕方はもう、ちゃんとおかげ頂きましたと、治まっとりましたというように、簡単に答えは出てこない場合も沢山あるということ。ね。けども、それが修行なんだと。ね。それで、そこんところをです、小刻みにね、ね。もう、日々をです。今日も一日、どうぞ言わんで済む修行をさせてください、おかげを頂かせてくださいと。だから、これが重なると、必ず、これはね、今日も苦しいことでした。もう、あすこで一言言いたいと思いました。けれども、まあ、ぐうぐ言うてじゃありますけれども、辛抱させていただきまして、結構な修行させていただいて有り難うございましたが出るようになるです、必ず。ね。もう言わんで、あそこは言わんで済みました。そうして治まっておるという事でもなからなければ、そうまで有り難いという事でもないけれども、一日締めくくったときにです。段々、それが有り難いことになってくる。そして、ほんとに、黙って修めるという事は、もう、とてもとても、大したことだという体験が生まれてくる。そういう信心をです。内容としてです。ね。酔生夢死を目指さしてもらう。有り難い。ね。一杯機嫌で一生が送れる。こんな素晴らしいことはないです。小さい心の人でも、酒飲むと、心が大きゅうなるでしょうが。ね。それを、私は、これは、悪い表現なんですね。これは、あのシナの言葉でしょうね、やっぱり。酔生夢死などという言葉は。いわゆる、漢文でしょう、のなかの、おー、言葉でしょうけれども、ほんなら、合楽ふうに御理解を頂かせていただきますとです。そのように素晴らしいことになる。しかも、夢の中に、この調子でいきゃ、夢の中に死んでいけるぞと。死ぬることには、苦しいことじゃない、もう、夢の中に、いうならば、その、杭があっという間に、取れるようなお繰り合わせがいただけるように、そういうお繰り合わせの中に死んでいけると。しかも、あの世に、この有り難いものを持っていけるぞという、そういう、信心を目指させていただくという事がです。そういう信心を目指させていただいてです、ね。日々、ほんなら、今日もひとつ、黙って、えー、言わんで済む修行させてくださいといったようなことに、取り組ませていただけるような信心が生まれたら、必ず、それに、いただけるのが、私は、安楽境だと思います。これはもう、神様が与えて下さるのです。なぜって、神様が、そういう信心の姿勢が出来た事を、喜び、安心して下さるからなんです。だから、神様の喜びは、こちらに帰ってくる。神様の安心が、こちらに帰ってくるのです。それに、例えば、何十年間信心をしておってもです。ただ、ね。我情我欲から、離れられない願いのためにです。それこそ、幾ら登っても登っても、信心させていただいても、それは、ね。十里に坂を向こうへ登り、下りるという事は、不可能です。ね。だからもう、信心の焦点を、本当にね。もう、紙一重のところなんですから、変えるという事なんです。楽というのは紙一重ですけれどもです。それがやっぱり、本気にならなければ出来ることじゃないです。ね。やはり、その気にならせていただくお繰り合わせいただかなければ。だから、今日、御理解を頂いたから、今日からとは申しません。けれども、御理解を頂いといてもらうとです。ね。何時か、本気で、自分の、はあー、自分の信心、こげな信心じゃ詰まらんと悟らせて貰うて、本当の信心に、向きが変わるところからです。神様が安心して下さる。その、安心がです、こちらへ帰ってくる。その境地を、私は、今日、私が頂いた、安楽境という事は、そういう事だと思うです。ね。ですから、この安楽境が、あの世にも繋がらないはずがない。いわゆる、死生の安心が得られる。そういう、高度なですね、高尚な願いに基づいて、教祖は、全ての御教えを説いておられる。どうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよというのは、そういうおかげを受けてくれよという事なんですよね。どうぞ。